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 旭地区は、JR福井駅の東側に位置し、東西約1㎞、南北約0.8㎞、西はJR北陸線、南は足羽川、北は北陸電力福井支店、東は県立高志高校に囲まれた福井市街の中心に位置しています。今までは鉄道によって行政、商業地区からは分離されてしまいましたが、ほぼ中央には荒川が流れ、足羽川に注いでいます。


 世帯数 2,350世帯余り、 人口 5,300人余り で、48地区中 21番目の人口です。

 福井駅周辺では、駅西口市開発が完了し「ハピリン」がオープンしました。現在更に複数の再開発が進められており、2024年春には北陸新幹線が敦賀まで開業予定です。

 

 本地区は、歴史的には旧福井城の三の丸地区にあたり、福井城の外堀であった現在の荒川を挟んで、およそ面積の半々が福井城の内側と外側で、多くは武家屋敷が建っていました。歴史的背景のもとに眺めても、福井市の中では郷土色豊かな土地柄で、公民館では「歴史と文化がみえるまち」として運営の重点テーマとしています。

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Anc 地区の特色

1.学問のまち 旭
 1819年福井藩第13藩主 松平治好より、旭地区にある桜の馬場に学問所「正義堂」が創設され、武芸中心の藩から、学問重視の藩へと大きく転換しました。入学者は武士の師弟だけでなく、一般町人の師弟も入学を許可されるという、全国的にも珍しく開かれた学問所でした。

 明治7年平瀬儀作が旭小学校を創立しました。以来、旭校は今日まで校名、校地、校歌をそのままに受けついでいます。
 明治31年には、福井師範学校が、その付属小学校とともに移転してきました。
 昭和5年には、県立女子高等学校(現県立高志高等学校)が御幸に移転し、旭地区は文字通り、福井市における文教地区として今日に至っています。


2.偉大な先人輩出のまち 旭

 正義堂の教官 吉田東篁は、なたさしの子でした。旭校の創設者 平瀬儀作は、17石どりの下級武士でした。その長男 平瀬作五郎は、「いちょう」の精子を発見しことにより、恩賜賞の栄に浴しています。

 また、福井県でただ唯一の総理大臣 岡田啓介、2・26事件の松尾伝蔵、世界的な地震学者 大森房吉も旭校に在籍しました。
 さらに、科学者 仙石 亮、比企 忠、種痘医者の笠原 白翁も旭地区に住んでいました。
 日本を代表する土木人 飛島文吉、熊谷太三郎もまた、旭地区ゆかりの人物です。
 初代福井市長 鈴木準道、3代 東郷竜雄、6代 永井 環、10代 熊谷太三郎も旭地区出身者です。
 旭地区は、文句なしに偉大な先人輩出の地といえます。

3.商業と住宅の調和のまち 旭
 徳川末期、福井藩は一般商家の三の丸居住を許したことにより、城之大通りの東端の手寄門には、美山・大野・三国方面の物質が集まり、にぎわいをみせていました。
 武家と商人とが混然として平穏に栄えたわけです。
 現在も、この城之橋大通りを中心に、板垣大通り、そして駅東大通りの3本の大通りを軸に、一般住宅と商業家屋が混然となって繁栄している地区といえます。

4.桜並木を中心とした水明のまち 旭

 福井藩時代から受けつがれた桜の馬場には、荒川下流右岸、幅約10m、長さ約400mの桜並木がありました。荒川に続く足羽川にも桜が植えられ、藩政時代、藩はこの桜の馬場の観桜を一般人にも解放しました。
 武士と町人が一体となって桜散る馬場で、馬術の訓練に励む若武者にやんやの拍手を送ったといわれています。
 明治、大正を経て、昭和の初期には城東橋の上流や、足羽川の調練場堤防に茶店が数軒並び、客人の便に供されました。
 このように、荒川と足羽川は区民に親しまれた地域となっています。

5.文化財のまち 旭
 当地区には、約400年の昔から火産霊(ほむすび)神社に伝わる、県無形文化財の「馬鹿ばやし」、また1300年の歴史を誇る白髭神社には、約200年以上の伝統を持つ「七夜踊り」があります。
 市の中心部にこうした立派な文化財を持つことは大変珍しいことです。
       昭和62年には、全区民の力で作られた「旭音頭」は、区民に親しまれている新しい文化財といってもいいでしょう。

Anc 観光マップ
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旭地区の観光ガイド 先人たちの碑と史跡

 

 旭地区は秀峰白山を望み、母なる吉野川の流れに息づく、旧福井城廓の東方に位置する古い歴史と伝統のまちです。旧桜の馬場に創設された正義堂(現旭小学校)は福井藩最初の学問所であり、この地からは吉田東篁、鈴木主税をはじめ幾多の優秀な政治家、学者が生まれ育ちました。さらに時代が下がると、わが国の地震学の第一人者となった大森房吉や、激変の中の偉大な政治家岡田啓介などを輩出した由緒ある地でもあります。

 そして今日、長い激動の歴史の中で先人たちの遺産を守り、幾多の災禍を乗り越えながらわずかの間に近代社会への変貌を遂げ、今や産業、経済、文化において福井市東部の中心地として弛まない発展を遂げ、繁栄の一途を辿っている。われわれは先人たちが残した多くの文化遺産を継承し、彼らが抱いてきた熱き郷土愛をわが身に体し、うらがまち旭の更なる発展に寄与せねばと念じています。

旭地区の偉人たち と 主な観光施設など

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鈴木主税(すずき ちから 1814-1856) マップ A-1

 文化11年、日之出1丁目(現えちぜん鉄道福井駅付近)に誕生。 英才で知られる主税は、松平春嶽の側近として、中根雪江、 橋本左内らとともに福井藩の立て直しに活躍した。また、寺社奉行、郡奉行として善政を行い、特に木田荒町の町民にのみ課せられていた悪税「あおだ」を廃止したことで深く感謝され、町民により崇拝のあかしとして「世直し神社」(現福井市みのり1丁目に実在)が建立された。

(※「あおだ」とは、町で行き倒れた旅人を本籍地に送り返す費用等を地域が負担する税)

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岡田啓介(おかだ けいすけ 1868-1952) マップ B-1

​ 慶応4年、新屋敷(現日之出3丁目中島織物機業場敷地内)に誕生。 海軍大将、連合艦隊司令長官、海軍大臣等を経て、内閣総理大臣となる。その後重臣として敗戦の収拾、平和回復に心を砕いた。 2・26事件に遭遇し、総理秘書として首相官邸にいた松尾伝蔵が身代わりに射殺されたのは有名な話である。

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 吉田東篁(よしだ とうこう 1808-1875) マップ B-1
 

 文化5年、土居組長屋(現旭小北校舎付近)に誕生。日頃から学問は実践にあると主張していた東篁は、黒船来航の時には江戸へ向かい、水戸藩に意向を伝える。ロシア軍艦の大阪来航の時も大阪へ向かう。 これらの政治的役目をなした後、明道館教授となって、矢島立軒、橋本左内、鈴木主計、由利公正、杉田定一らを育てた。

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松尾伝蔵(まつお でんぞう 1872-1936)マップ B-2

​ 明治5年8月16日、手寄上町55番地に誕生。 陸軍大佐、歩兵第59連隊長としてシベリア出兵。その後、旭社会教育会長、在郷軍人分会長を歴任。昭和9年内閣総理大臣秘書官を拝命。2.26事件(昭和11年2月26日)に遭遇し、首相官邸において岡田啓介首相(義兄)の身代わりとなって殉職された。

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大森房吉(おおもり ふさきち 1868-1923) マップ A-1

​ 明治元年9月、百軒長屋(現手寄2丁目)に誕生。理学博士。地震学の研究で世界的に有名。海外への遊学も10回以上に及んだ。設計した「大森式地震計」は、永らく機能を発揮、気象台で使用されていたが、昭和39年福井市に寄贈され、郷土歴史館に展示されている。

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加藤寛治(かとう かんじ 1870-1939)  マップ A-2

​ 明治3年豊島中町に誕生。海軍兵学校を主席で卒業。昭和2年海軍大将となる。この間、日清・日露戦争、第1次世界大戦に参戦。連合艦隊司令長官、軍令部長、軍事参議官等の要職を歴任。昭和5年ロンドン軍縮会議の妥結に際し、軍拡派としての持論を貫くため軍令部長を辞職。海軍の長老で、資性豪快、幼くして父を亡くし、母に仕えて至孝であった。

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塚原芥山(つかはら かいざん 1907-1945) マップ A-2

 福井が生んだ陶芸家塚原芥山(1907~1945)は、明治40年3月21日、福井市豊島中町160番地に誕生。本名は正志。 大正14年福井中学を卒業。福井社記者、代用教員などの職を転々とした後、昭和5年瀬戸の加藤雲山に弟子入りし、生涯の師友加藤唐九郎を知る。
 昭和20年7月、38才で死去するまで、抜群のろくろ技術と秀でた絵付けにより、土に根ざした独特の世界を形づくった。最後まで芸術的良心を持ち続けた陶芸家である。

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芳賀矢一(はが やいち 1867-1927) マップ B-1

 慶応3年、福井市佐佳枝上町(浜町)にある母方の実家欺波家で誕生。父(真咲)は東京にいて弓の稽古中に長男の知らせを聞き矢一と命名。一家は日之出中町に住んでいた。文学の父と言われる。旭小学校の校歌を作る。

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-1 桜の馬場(さくらのばば) マップ B-1・B‐2

​ 荒川の堤防沿いに作られた桜の馬場は、福井藩の武士が馬術の練習をする場所であった。当時の馬場は桜の木も多く植えられ、春には見事な花を咲かせていたので「桜の馬場」と呼ばれていた。

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-2  学問所「正義堂」(せいぎどう) マップ B-2

 正義堂は福井藩の学問所で,200年以上前の文政2年(1819年)、福井城下の米商人・内藤喜右ヱ門(ないとうきうえもん)の献金300両 (現在の約2100万円)を受け、福井藩第13代藩主 松平浩好 が、城下東部の、この桜の馬場の一隅に学問所「正義道」(旭小学校の前身)を開いた。

 この学問所では、武士の師弟だけでなく庶民も藩士といっしょに学ぶことができ一般町民の師弟も入学できる開かれた学問所であり武芸中心の藩から学問重視の藩へと大きく転換し、幾多の偉人を育てた。まさに福井市の学問の始まりの地であったといえる。

 正義堂ゆかりの地である旭小学校に、平成14年5月11日に「新正義堂」を校舎内に設け、地域の歴史、偉人、資料などを紹介、展示して旭小学校の生徒の学びの場の一つになっている。

 なお、③の吉田東篁は正義堂の教官であった。

​(参考:旭小学校は明治7(1874)年、初代校長平瀬儀作先生の尽力により創設された。)

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荒 川(あらかわ) マップ A-2

 以前は吉野川といい、旧吉野村(現在の松岡町)の吉野岳を源流に、下吉野から松岡町下吉野から西に曲がり福井市に入り、重立、原目の山裾を流れ、さらに今泉、河増、四ツ居の田畑を潤しながら、旭地区を北から南に横切り足羽川に合流する全長15㎞に及んでる。藩政の頃には、日之出から勝見に向けて、一直線に1.2㎞にわたり、付け替えられたと言われている。
 ひとたび大雨が降ると洪水になる「あばれ川」であったが、近年改修工事が進められ、荒川の水害も治まっている。

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火産霊神社(ほむすびじんじゃ) マップ A-2

 区民に通称「秋葉さん」と呼び親しまれている当社は明治5年に火産霊神社と改称された。創立は、福井藩祖松平秀康公が、下総国結城(茨城県)に在城の頃、防災の神と崇めていた遠州国(静岡県)秋葉神社の御分霊を、慶長6年北の庄に転封の際、彼地より移し、当初は元豊島下町に鎮座されたが、戦後現在地に移転した。当神社に伝わる馬鹿ばやし(福井県無形文化財指定)は、朝倉家の御用商人多田善四郎が城の橋通りに住み、その人の伝授で町内の人々が祝祭日などに披露していたのが始まりと言われている。

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東光寺(とうこうじ) マップ A-2

 臨済宗妙心寺派富士山東光寺が正式の寺号である。開祖は、旧越前三代藩主松平忠昌公。寛永元年、兄忠直公が大分へ流罪となり、その後継として忠昌公が越前入封の際、越後高田(新潟県)より移転した。この地は、忠直公乱行の際、妊婦の腹を割いたと伝えられている。小山田多聞の家老屋敷であったものを取り払って、永代妊婦供養のために松平家菩提寺とし、今日に至っている。開基木像や絵像など宝物がある。現建物は、昭和43年に建立された。

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福井地方気象台(ふくいちほうきしょうだい) マップ A-2

​ 明治29年福井県議会の議決により、同年2月日の出町26番地で工事が開始され、翌年1月から県営福井測候所として気象観測業務を開始した。昭和14年に移管され、福井測候所と改称。
 昭和20年に戦火に遭い、豊島2丁目に移転し、現在に至っている。昭和32年9月に福井地方気象台と改称された。

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荒川水門(あらかわすいもん) マップ A-2

 一級河川荒川は、出水のたびに浸冠水の被害を引き起こしていたので、昭和39年~50年度にポンプ場を設置して対応したが、その後区域内の市街地が進むと共に下水事業による総排水容が不足となり改修計画を検討、昭和57年度より水門の改築、ポンプの増強を進め平成3年2月に完成の運びとなった。

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北向観音堂(きたむきかんのんどう) マップ A-2

​ 慶長6年(1601年)結城秀康入国の頃、勝見村に前田文助という大庄屋がいた。ある夜文助が、足羽川で魚をとっていたところ、網に木像がかかったが気にもとめず川に捨ててしまった。しかし何度網を打っても先ほどの木像がかかってきたので、家に持ち帰り安置すると、その夜観音の姿が夢枕に立った。さらに正面に安置したが、いつとはなく北向きに変わっていた。その後文助たちにより、一堂が建立され、観音像は北向きに祀られた。以後人々は、北向観音と称した。

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白髭神社(しらひげじんじゃ) マップ B-2

 平安時代の延喜式神名帳に記載されている式内神社で、桓武天皇の御代延暦年中(1200年前)、坂上苅田麿が当国主であった時、深く崇敬して再建された。祭神は、猿田彦大明神。当神社には、古来から伝わる太刀・書軸などの多くの宝物が収蔵されていたが、昭和20年の戦災で消失した。七夜おどりは、200年以上もの昔から当神社境内で踊られてきた「やっしき踊り」で、毎年8月17日から7夜躍られる素朴な盆踊りである。

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旭公民館(あさひこうみんかん) マップ A-1

 昭和26年8月、福井市公民館東部分館として創立。昭和35年、旭公民館となる。平成5年、現在地に移転、平成23年新築落成。 平瀬作五郎・永井 環等の資料がある。平瀬作五郎(1856~1925)泳ぐ銀杏の精子発見。永井 環(1865~1941)司法官 宮崎県知事、門司市長、東京市助役、福井市長等を務める。

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⑱ 岡田啓介翁立像・松尾伝蔵大佐胸像 マップ A-1

 岡田啓介元総理大臣と松尾伝蔵大佐は、旭地区が誇る数多くの偉人の中でも特別な存在です。

 岡田啓介立像は、当時の旭社会教育会が中心となり寄付を募って、昭和39年に福井市中央公園に建立されました。松尾伝蔵大佐胸像は、同じ旭教育会が旭小学校に再建(※)したものです。

 岡田啓介翁立像と松尾伝蔵大佐胸像及び松尾大佐の歌碑は、平成28年8月、福井県へ寄付されたのち、同年10月、福井県によってJR福井駅東口交通広場に移設整備されました。

※ 松尾伝蔵大佐胸像及び歌碑:昭和11年11月、旭社会教育会によって建立(当初は石像)。昭和20年7月、福井空襲によって石像、歌碑共に破壊、四散。昭和28年2月26日、17回忌に当たり大佐の碑及び歌碑を岡田啓介生誕地の碑左隣に再建、のち、旭小学校北校舎北側に移転。昭和40年2月26日、松尾伝蔵大佐胸像(銅製)を再建。昭和49年8月、北校舎の鉄筋化に伴い、胸像及び歌碑を約20m西側へ移転。昭和55年6月5日、体育館の改築を機に体育館南西隅(校庭北西角)に築山を造り、その中央に移転した。

 岡田啓介についてはこのページの②を、松尾伝蔵については④をご覧ください。

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